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【二の足を踏む事という事は、一歩目を踏み出した証拠】

【二の足を踏め】

Words like “can’t” and “impossible” were regulars in your vocabulary, but we begin to realize the only real failure is in not trying at all.
Dreaming big.

年齢を重ねるにつれ、慣れたことを組み合わせて器用に生きていく大人。それはもちろん経験の積み重ねによって、どんどん大きくなるものだから決して悪いことではないのだけど、
でもそれに甘んじてしまうと、慣れから逸脱することが億劫になっていく。知らない事を知ろうとする事に、気付かない間に恐怖感を覚えてしまう。慣れている方が楽だから。
先月末からパフォーマンスでパラグアイに約1週間行き、知らない言葉を自然とどんどん覚えていった。その中で語学を学ぶ事というのは、自分が初心者になれること。つまり、ゼロから学ぶという気持ちにさせてくれるという素晴らしい機会だということに改めて気づくことができた。

言葉を学ぶというのは、違う国の人と話すことができるという物理的な事以上に、その国の文化や風習、そして、1から学ぶ擬似体験ができるという事が大きい。
学ぶということは頭を下げるということ。教えを乞うということ。

実るほど頭を垂れる稲穂かな
みのるほど こうべをたれる いなほかな

ということわざにもあるように、立派な人ほど謙虚な姿勢で学び、成長し続けるもの。

二の足を踏む事という事は、一歩目を踏み出した証拠

とはいえ、ホテルなどで英語が通じる場面もあったので、母国語ではない英語が通じる場面で安心する体験をしたのもまた新しい感覚だった。

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自由にはなれないけど、自由と感じることはできる

普段から一人で行動することが多い中で、かなり自分のやりたいことをさせてもらっているとは思いつつも、そのほとんど全てが、どこかの組織の中の一部として行っている。
勝手に路上で踊ったりすれば話は少し違うかもしれないけど、大きな音を出したり、道を遮ったりして人の邪魔になれば迷惑になり、注意され、時には逮捕されることだってある。
つまり、この世界で自由など存在しない。
いつも誰かと関わっている。常になんらかの制約がある。

でも、僕を含め、世の中には
「自由に生きたい」
「好きなことをして生きたい」
そんな風に思う人がほとんど。自由など存在しないのに??

そう、自由とは存在するものではなくて、概念。
つまり、考え方次第で誰でも自由になれる。
日本だろうが、海外だろうが、どこでも一緒。

想像することができるかもしれないけど、想定することはできない。
想定するためには、想像が必要。

最初の始まりは憧れや想像かもしれないけど、でも実際に行動に移すには、想像だけでは不十分なんだ。

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断らないことで領域が広がる

嫌な仕事、したくないこと、明らかに自分のためにならない、リスペクトがない、そんな事はする必要がないかもしれない。
けど、
断るということは、当然相手がいる上で成り立つこと。
相手がいるということは、自分のまだ知らない世界が待っているかもしれないということ。

毎日1分単位でスケジュールを埋めることが仕事ではなく、自分が本当に興味があることにいつでも対応できること。それが自由であり、自分で自分を縛らないということだ。
今回のパラグアイツアーも予定を急遽空ける必要があった。でも自分の気持ちに正直になり、なんとか実現できるように動いてみたら、なんとか実現できた。
結果的に、自分の見解が広がり、そして日本から地球の裏側で活動できるのであれば、これからどこにいても生きていけるのではないか?という自信と、確証はまだないけど確信が持てた。

デジタルに代替できないものはやっぱり心だ。体験に勝るものはない。AIでもできるデジタルなんてスイッチ一つで消えてしまう。20年前のファイルなんて、もうネット上に残っていることは少ない。逆に紙媒体で押し入れにしまってあるアルバムはずっと残っていることがしばしば。

これからも、将来の夢に向かって、そんなアルバムのような存在であれればと思います。